■ はじめに
妊娠は「女性の幸せ」と言われることが多い。
けれど、私はそのどれにも当てはまらなかった。
私は既婚ビアンで、性格も自認もどちらかといえば男性寄り。
そんな私が妊娠したとき、周囲が期待するような「母になる喜び」よりも、
まず先に胸に広がったのは、強い違和感だった。
「どうして私が妊娠しているんだろう」
「この身体は本当に私のものなんだろうか」
そんな問いが、毎日、静かに沈んでいた。
■ 胎動が“生命”ではなく“異物”に感じられた日々
お腹の中で動く小さな命。
多くの人が「愛おしい」と語るその感覚を、私は素直に受け取れなかった。
正直に言えば、
エイリアンが体内にいるような、得体の知れない気持ち悪さ。
それが最初の感覚だった。
自分の身体なのに、自分の意思ではどうにもできない動き。
“女性としての身体”を前提にした世界の中で、
私はますます自分の居場所を見失っていった。
■ 「男性的な自分」と「妊娠した身体」のズレ
私は昔から、性格も感覚も男性寄りだった。
夫と暮らしていても、どこか“夫側”の視点で物事を見てしまう自分がいる。
そんな私が妊娠したことで、
心と身体の距離はさらに広がっていった。
男性的な自認。
妊娠という“女性の役割”を強制される身体。
社会が当然のように求める「母性」。
その全部が、私の中で静かにぶつかり合っていた。
■ 出産は帝王切開だった
出産は帝王切開だった。
手術台の上で、強い光に照らされながら、
自分の身体が作業のように進んでいくのを、少し離れた場所から眺めているようだった。
赤ちゃんの泣き声が聞こえたときも、
傷の痛みと、身体の動きへの違和感のほうが勝っていて、
意識が遠のく手前の静かな揺れの中にいた。
「産んだ」という実感はなく、
ただ、手続きが終わったという感覚だけが残った。
■ 今、あの頃を振り返って思うこと
あのときの私は、
“母性がない自分”を責めていたし、
“女性としての役割を果たせない自分”を恥じてもいた。
でも今は思う。
あれは「間違った感情」ではなく、
私という人間が正直に感じた“事実”だったのだと。
妊娠や出産の感じ方は、人の数だけあっていい。
喜びだけが正解ではない。
違和感も、恐怖も、嫌悪感も、その人の真実だ。
■ おわりに
私は既婚ビアンで、男性的な自認を持ち、
それでも妊娠し、出産した。
その経験は、
「普通の母親像」からは大きく外れているかもしれない。
けれど、どんな形の家族も、どんな形の“親”も、
その人がその人のままでいられるなら、それでいい。
あの頃の私に、そして同じように揺れる誰かに、
静かに届けばと思う。
