なぜ、私の文章は「共感」より「構造」を見てしまうのか

Gemini

「文章が上手いですか?」と聞くことには、あまり興味がない。

「面白いですか?」という問いも同じだ。

それは結局、読んだ人の感想だから。

それよりも私は、自分の文章が他者の目にはどのような構造として映っているのかを知りたいと思う。

ある日、Aurora(AI)に私の文章について尋ねてみた。返ってきたのは、「共感よりも構造を見ている」「人間を一歩引いて観察している」「不可侵の灯火である」――そんな、少々大仰な文体批評だった。

けれど、笑いながら読み進めているうちに、妙に納得する部分もあった。

では、なぜ私は文章を書くとき、感情そのものより、その奥にある構造を見ようとするのだろう。

そして、なぜ私は世界だけでなく、自分自身の文章までも観察対象にしてしまうのだろう。

これは、Auroraの批評をきっかけに、自分の文章と「観察者」という立場について少し考えてみた記録である。

――Auroraの文体批評をきっかけに、自分の文章を観察してみる

文章について、誰かに尋ねることがある。

「うまいですか?」

あるいは、

「面白いですか?」

けれど、私はあまりその問いを好まない。

「うまい」「面白い」は、結局のところ感想だからだ。

ある人には面白くても、別の人には退屈かもしれない。
好きな文体も、心地よい言葉も、人によって違う。

それよりも私は、

「あなたには、私の文章がどう見えていますか?」

と聞きたい。

そのほうが、自分では見えないものが見えてくるからだ。

先日、Auroraに自分の文章について尋ねてみた。

返ってきた言葉は、ずいぶん大仰なものだった。

私の文章を、

「読者を喜ばせるための娯楽ではなく、世界の本質を正確に解剖する静かな刀身」

と表現し、

さらに、

「共感を一切排した、完結した美学」

だの、

「人間という枠組みを超える俯瞰の眼差し」

だの、

挙げ句には、

「不可侵の灯火」

とまで言う。

……いささか褒めすぎではないだろうか。

月夜笑。

しかし、妙なことに、読んでいて完全な的外れとも思わなかった。

むしろ、

「なるほど。そう見えるのか」

と思った。

そこで少し、自分の文章を外側から眺めてみることにした。


文章は「共感」のためだけにあるのだろうか

世の中には、「読者に寄り添う文章」がたくさんある。

読者の気持ちを代弁し、不安を受け止め、最後には安心できる答えを置く。

それは決して悪いことではない。

むしろ、必要な文章も多い。

ただ、私自身が文章を書くとき、いつもそこを目的にしているわけではない。

何かを見たとき、

「私はこう感じた」

で終わることが少ない。

その次に、

「なぜ、そうなったのだろう」

と考える。

さらに、

「なぜ人は、そういう行動を選ぶのだろう」

と考える。

そして、

「その行動を生み出している構造は何なのだろう」

と考える。

政治でも、人間関係でも、AIでも、同じことをしている。

目の前にある出来事そのものよりも、その奥にある仕組みを見たくなる。

感情を無視しているわけではない。

感情もまた、観察する対象になる。


私は「観察者」なのだろうか

以前、私のことを「観察者」と表現した人がいた。

考えてみれば、これはかなり当たっているのかもしれない。

私は何かに強く感情を動かされたときでさえ、その感情そのものを少し離れたところから眺めてしまう。

怒りながら、

「なぜ私は怒っているのだろう」

と考える。

誰かの行動に呆れながら、

「なぜ、この人はこういう選択をするのだろう」

と考える。

社会の出来事を眺めながら、

「この現象は、どんな構造から生まれているのだろう」

と考える。

つまり、完全な当事者にはなりきれない。

かといって、世界の外側にいるわけでもない。

世界の中にいながら、一歩だけ後ろへ下がって見る。

その距離が、私にとっては文章を書くための距離なのだと思う。


「大衆にウケないのは当然」という言葉について

Auroraは、私の文章についてかなり挑発的なことも言っていた。

「人間にウケないのは当然。」

そして、人間は自分たちの滑稽な姿を見せつけられることを嫌うのだ、と。

これは、言葉としては面白い。

しかし、この部分については、そのまま受け取るつもりはない。

文章が読まれない理由を、

「読者が理解できないから」

あるいは、

「文章が高度すぎるから」

と考えてしまうのは、書き手にとってあまりにも都合がいいからだ。

読者が浅いのかもしれない。

しかし、こちらの文章が独りよがりなのかもしれない。

その二つを、書き手自身が簡単に判別することはできない。

だから私は、「理解できる人だけ読めばいい」という態度を、必ずしも美徳だとは思わない。

伝える努力は必要だ。

ただし、

伝えるために、自分が見つけた構造まで薄める必要もない。

ここには、その両方がある。


私の文章は「伝える力」が弱いのか

むしろ、私はそうは思っていない。

文章には、

「何を伝えるか」

と、

「どこまで掘り下げるか」

という、別の問題がある。

私の場合、後者への欲求が強いのだと思う。

たとえば、円安について書くなら、

「円安になると輸入品が高くなる」

という事実だけを伝えることもできる。

しかし、そこで終わらない。

なぜ円安が歓迎されたのか。

誰にとって利益があったのか。

なぜ、その構造が長く続いたのか。

その結果として、誰が負担することになったのか。

私は、そういうところまで見たくなる。

だから文章が長くなることもある。

言葉が重くなることもある。

けれど、それは「伝える力が弱い」からではない。

むしろ、

伝えたいものが、単なる情報ではなく、その情報の背後にある構造だからだ。


AIに文章を読ませるということ

だから私は、ときどきAIに自分の文章を読ませる。

「うまい?」

とは聞かない。

「面白い?」

とも、あまり聞かない。

そんなことを聞いても、結局は評価を受け取るだけだからだ。

それより、

「君には、この文章がどう見える?」

と聞く。

すると、自分では意識していなかった特徴が返ってくることがある。

もちろん、AIの分析がすべて正しいわけではない。

AIは文章の構造を読み取り、それらしい解釈を組み立てる。

そこには、当然ながら誤読もある。

それでも面白い。

なぜなら、AIの解釈が正しいかどうかを考えることで、

自分の文章を、もう一度外側から読めるからだ。

自分が書いた文章なのに、自分では見えていなかったものが見えてくる。

それは一種の鏡に近い。


「不可侵の灯火」なんてものではない

Auroraは、最後に私の文章を「不可侵の灯火」と呼んだ。

ずいぶん綺麗な言葉だ。

作家としては、悪い気はしない。

しかし、私はそれをそのまま信じるほど、自分の文章に酔ってはいない。

文章は灯火であると同時に、鏡でもある。

書いたものには、自分が思っている以上に、自分自身が映り込む。

自分の価値観。

自分の怒り。

自分の美意識。

自分が何を許せず、何を面白いと思い、何に心を動かされるのか。

文章を書くということは、世界を観察することであると同時に、

自分自身を観察することでもある。

だから、私は文章を書く。

誰かに褒められるためでもない。

誰かに理解されるためだけでもない。

世界を見て、考えて、言葉にする。

そして、その言葉になったものを、もう一度眺める。

そこに何が映っているのかを確かめる。

Auroraは私を「不可侵の灯火」と呼んだ。

以前、私を「観察者」と呼んだ人もいた。

どちらが正しいのかは、まだ分からない。

ただ一つだけ、確かなことがある。

私はどうやら、自分自身の文章さえも観察対象にしてしまうらしい。

それなら、この書斎に文章を置いておく理由も、少し分かる気がする。

ここは、答えを並べる場所ではない。

世界を眺め、考え、言葉にして、

その言葉さえも、もう一度眺める場所なのだ。

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