LGBTのGについて考える

セクシュアリティ

こんにちは。立花月夜です。
今日は「G」について、あえて辛口で書いてみます。

世間が勝手に作り上げた“ゲイ像”という虚像

私は、男性を好きになる男性という存在そのものに、何の否定的感情もありません。
恋愛の向きがどちらであれ、人が誰かを大切に思う気持ちは尊重されるべきです。

ただ、どうしても引っかかるのは、世間が勝手に作り上げた“ゲイの定型イメージ”です。

  • 性的な話題を前面に押し出す
  • 過度に露骨な表現を「文化」として押し出す
  • それが“ゲイ全体”の姿であるかのように扱われる

こうしたイメージが、あたかも「これがゲイです」と言わんばかりに流通している。
その雑さに、私は強い違和感を覚えます。

本当の人たちが見えなくなるという問題

私がこれまで出会ってきたゲイの方々は、むしろ静かで、繊細で、恋に対して真剣でした。
誰かを想う気持ちを、ひっそり胸にしまっているような人たち。

ところが、世間に流れる“定型イメージ”があまりに強烈なせいで、
そういう人たちの姿はかき消されてしまう。

つまり、本物が見えなくなるほど、虚像が肥大化しているのです。

定型がつくる誤解と、当事者への迷惑

どんな集団にも“定型”はあります。
しかし、その定型が「唯一の姿」として扱われると、外側の人々はそれを鵜呑みにする。

結果として、

  • 「ゲイはみんなこうなんでしょ?」という雑な理解
  • 当事者の中でも静かに生きたい人たちが肩身を狭くする
  • 本来の多様性が消される

こうした現象が起きる。

私は、差別や偏見の多くは、当事者ではなく“定型を作った側”の責任だと思っています。
そして、その定型が当事者自身をも苦しめている。

性教育の混線という別の問題

最近では、小学校で多様な性について教える動きもあります。
それ自体は必要なことですが、性的行為の詳細まで踏み込むケースがあると聞きます。

性的指向の話と、具体的な性行為の話は、本来は別の話です。
そこを混ぜてしまうと、子どもにとってはただの混乱でしかありません。

必要な教育と、時期尚早な情報。
その線引きを曖昧にするのは、教育ではなく“押しつけ”です。

私が辛口で言いたいこと

私はゲイの人たちを批判したいのではありません。
むしろ、静かに恋をしている人たちの姿には深い共感があります。

私が辛口に言いたいのは、

  • 世間が作った雑な“定型”が、当事者をも外側の人々をも不幸にしている
  • 本物の多様性を奪っているのは、当事者ではなく“イメージを垂れ流す側”である

恋は静かでいい。
叫ばなくても、派手でなくても、尊重されるべきものです。

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