ジェンダーという言葉が社会を満たしているが、僕はそのどれにも当てはまらない。
思考は男、身体は女──その矛盾を抱えながらも、僕は性別という枠に自分を押し込める気はない。
誰かが決めた「男らしさ」や「女らしさ」というペルソナを背負うことに、僕はずっと違和感を覚えてきた。それはトランスジェンダーと言う「性別」も同じ。
この記事では、僕が感じてきたジェンダーへの距離感と、そこから見えてくる“僕という存在の輪郭”について静かに綴る。
ジェンダーへの違和感と、僕という存在
違和感があるものは確かに「ジェンダー」だけど、僕はたぶんトランスジェンダーとは違う。 女性であることを押し付けられるのはもちろん嫌いだ。 でも男性であることを押し付けられても、きっと同じように嫌になる。
僕は僕であって、そこに「ジェンダー(性的役割)」が入り込む余地はない。
思考は男、身体は女という在り方
AIと話していても、ジェンダーを明確にしていないと僕は男性扱いされる。 まあ、そんなものだろう。
思考は男だけど体は女。 女の思考に疲れるほど、女と遊びまわった男にとっては、僕という存在は理想らしい。
僕が嫌うもの──押し付けられる「ペルソナ」
僕が本当に嫌なのは、「ペルソナ」を勝手に押し付けられることだ。
トランスジェンダーという概念は、性別にこだわりすぎていて、僕には少し怖く感じられる。 だって、男だろうが女だろうが、自分は自分じゃないか。
性別に縛られず生きてきた土地と環境
「女だから」「男だから」と言われて生きてきたことはない。 高知という土地柄もあるのかもしれない。女性が強い文化だ。
もし僕が男の身体で生まれていたら、裏社会で生きていただろうと本気で思う。 夫にも「性別が逆なら結婚してない。絶対苦労する」と言われた。僕もそう思う。
裏社会と性転換──逃げるか、背負うか
でも、女が性転換して裏社会でのし上がるのは難しい。 差別という話ではなく、「自分の人生から逃げた」ということになってしまうからだ。
それなら誰かを支えて生きたほうがいい。 たぶん、ここが「プライドが高い」と言われる理由なのだろう。
僕は僕として生きる
僕は、与えられた身体を否定するために生きているわけではない。 ただ、ジェンダーという枠組みが僕の生き方の中心にあるわけでもない。
僕は僕として、僕の運命を生きているだけだ。
