「うちにはママはいない。パパが二人いる」
そんな言葉で育った姉妹。
パンセクシャルの上娘と、ノンケの下娘。既婚ビアンの私が、家族の中で感じてきた“決めつけない関わり方”について綴ります。
枠の外で育つ、うちの姉妹の話
うちには姉妹がいる。
上の娘は、性格も顔つきも私にそっくり。小さい頃はよく「男の子?」と聞かれたほど、少し中性的で、キリッとした顔立ちだった。今はその“中性さ”が彼女の魅力になっている。
下の娘は夫にそっくりで、幼いころはこんなことを言っていた。
「うちにはママはいない。パパが二人いる」
あまりに自然に言うので、私も夫も笑ってしまった。
たぶん、家の中の役割分担が“世間のいうママ像”と違っていたからだろう。家事のほとんどは夫が担当し、私はご飯を作るか、気が向いたときに掃除をするくらい。
「できる人がやればいい」という私と、「いつまでもやらないから動いてしまう」という夫。
そんな私たちを見て育てば、子どもが“パパが二人”と思っても不思議ではない。
上の娘はパンセクシャル
上の娘は、今は自分のことをパンセクシャルだと言っている。
パンセクシャルとは、相手の性別に関係なく、人として惹かれる相手を好きになるセクシュアリティのこと。
男性だから、女性だから、Xジェンダーだから――そういう枠組みよりも、「その人自身」に心が動くタイプだ。
私自身が既婚ビアンであることを考えると、どこか似た感覚を持っているのかもしれない。
でも、彼女は彼女の道を歩いている。
私の影響というより、彼女自身の感性で世界を見ているのだと思う。
下の娘はノンケ
下の娘は今のところノンケだ。
でも、それを特別視することもない。
姉妹でセクシュアリティが違うのは、ただの“個性の違い”でしかない。
LGBT教育が流行っているらしいけれど
最近、学校でもメディアでも「LGBT教育」が盛んになっていると聞く。
もちろん、差別や偏見をなくすための取り組みは大切だと思う。
ただ、私は少し違う考えを持っている。
「あなたはこうかもしれない」「こういう性のあり方がある」
と、先に“枠”を提示する教育には、どこか違和感がある。
私が子どもたちに伝えたいのは、もっとシンプルなことだ。
どんな人でも、決めつけで付き合わない。
目の前のその人を、そのまま見る。
それだけで十分ではないだろうか。
セクシュアリティは、教えられて決めるものではない。
生きていく中で、自分の心が自然に選んでいくものだ。
家族のかたちに「正解」はない
我が家には「ママらしいママ」もいないし、「パパらしいパパ」もいない。
でも、子どもたちはそれぞれの感性で育ち、ちゃんと自分の言葉で世界を語り始めている。
それでいい。
むしろ、それがいい。
家族のかたちはひとつじゃない。
ジェンダーも、セクシュアリティも、役割も、誰かが決めるものではない。
私たちは、ただ“私たちの家族”として生きているだけだ。
