「親切」という名の猛毒――電車内で他人のしつけを踏みにじる無責任な善意

胸糞悪いこと

夕方の新宿駅。押し寄せる人の波と、誰もが張り詰めた疲労を抱えて乗り込む満員近い在来線。 車内に、ひとりの子供の甲高いぐずり声が響いた。

「座りたい!誰も譲ってくれないねぇ!座りたい!」

 走りこんできた親子。子供は5歳くらい。母親は青ざめた顔で子供の手を握り、必死に言い聞かせていた。

「みんな疲れているの。ここは立っている場所だよ。我慢しなさい」

 親として、公共空間で身につけさせるべき当然の境界線。思い通りにならない現実に耐え、周囲の空気を慮ることを教える、まさに泥臭い教育の現場だった。周囲もその必死さを感じ取り、静かに耐えて見守っている空気があった。

 その時、その近くに座っていた見ず知らずの高齢男性が、鷹揚な笑みを浮かべて立ち上がった。

「ほら、ぼく。おじいちゃんの席に座りなさい」

 一瞬で凍りつく母親の表情。子供は泣き止み、勝ち誇ったようにその席へ滑り込む。 男性は「いいんだよ、子供なんだから」と周囲に聞こえるように言い、満足そうに頷いた。

 その瞬間、車内に漂った言いようのない後味の悪さを、私は忘れられない。

「優しい老人」と「冷酷な母親」という残酷な構図

 これほどグロテスクな「善意の暴力」があるだろうか。

 この見ず知らずの老人がしたことは、親切でも何でもない。他人が懸命に築こうとしていた教育の防波堤を、自分の足で踏み荒らしただけだ。

 母親は周囲への配慮から懸命にブレーキを踏んでいた。しかし、無関係な第三者が外側からアクセルを踏み抜いたことで、その場に最悪の構図が完成してしまった。

  • 融通の利かない、子供をいじめる冷たい親
  • 理解があって情け深い、人格者の老人

 親の立場と面目は完全に潰され、毅然と教え込もうとしていた規範は、老人の安っぽいヒロイズムの生贄にされた。断れば「せっかくの親切を無にする頑固な親」としてさらに周囲の目に晒される。母親には、引きつった笑みで「すみません……」と頭を下げる以外の選択肢が残されていなかった。

「ゴネ得」という不発弾を社会に埋め込む罪

 この介入の罪深さは、親のメンツを潰したことだけに留まらない。子供の脳内に、最悪の成功体験を刻み込んでしまったことにある。

 心理学で言うところの、最も悪質なオペラント条件づけだ。

「親がダメだと言っても、人前で大声を出して駄々を捏ねれば、赤の他人が味方をして要求を押し通してくれる」

 子供はそう学習した。夕方の疲弊した電車内で学ぶべきだった「我慢」や「他者への配慮」は吹き飛び、「感情のゴリ押しによる環境支配」という抜け道を覚えてしまったのだ。

 家庭内の甘やかしなら、まだ親が修正できる。しかし「社会に出てごねれば得をする」という回路を開いたのは、他ならぬ赤の他人だ。

善行に酔いしれ、立ち去る無責任さ

 席を譲った本人は、「良いことをした自分」に酔いしれ、数駅先で満足げに降りていくだけだ。

 だが、その後に残された親の徒労感はどうなるのか。 味を占め、次にまた別の場所で同じように癇癪を起こす子供の後始末を、その老人が引き受けてくれるわけではない。

 子供が将来、社会の冷たい拒絶にぶつかって痛い目を見る時、その責任を負うこともない。

 自己満足の果実だけを摘み取り、その後の腐敗をすべて親に押し付ける。 善意の皮を被っているからこそ糾弾もしづらい、この「無責任な善意の押し売り」ほど、質の悪い暴力はない。

 教育の現場は、家庭の中だけで完結するものではない。だが、親が社会規範を教え込もうと必死に汗を流しているその瞬間くらい、土足で踏み入るのをやめ、静かに「耐えさせる時間」を見守るのが、本当の社会の品格ではないだろうか。

 甘やかしの虐待。それは親よりも赤の他人のほうが罪深いのだ。

 

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